2008年02月16日

柳美里さんが連絡して来ないかな~!?

どうも私は虐待とかの記事に敏感みたいだ。先ずは殴った方に虐待じゃないか?と問えばNOを言うに決まっている。どんな状態であろうとも親が子供を殴って良いと法律に記載されてはいない。虐待である事自体は?であるが、この事件は柳さんが主人公の事件であるという事は確かだと私は思う。

最初はペンケースがなくなった。それは柳さんの不利益になる。万年筆がなくなるのも困るし、名刺がなくなるのも困ると書いてある。正にその通りだろう。しかし困るのは柳さんだけで他の人は困らない。しかしその困らない周りの人まで巻き込んでいるのは何故でしょうか?子供が騒ぎを大きくしたのではなく柳さんが大きくしてしまったのに他ならない。柳さんは親の立場をフルに使って自分を正当化しようと画策しているとしか私には見えない。その証拠に途中から「なくなったペンケースがもうどうでも良い」と本人が言っている。自分の感情を整理出来ないだけの愚かな母親は子供を正座させて嘘を引き出させてしまう。

子供は簡単に本当の事は言わない。本当の事を言えば事件が解決してしまうからだ。事件は複雑で難問が良い。少なくても事件が解決するまでは確実に母親はいる。子供は泣いたり笑ったりしながら色々な表情を浮かべながらも大人の反応を観察している。誰が何を言ったとか、どんな表情をしたとか、大人の比ではないくらいに子供は正確に周りを観察している。今回は特にペンケースをなくしたという単純な嘘だけに彼の心情は明らかだ。その時に彼は寂しかったのだと思う。寂しかった理由は何故そうなったのかは分らないが、何らかのマイナスイメージの中に幼い子供がいたのだと思う。だから突き詰めれば嘘を並べて関心を引く事を止めない。その意味では柳さんは子供の術中に填っている。子供は言葉を表しても心は見せていない。今回は子供のほうに軍配は上がった。多分次があると私は思う。

今回の事件は限りなく虐待の傾向が極めて高いと考えるのは一般的な考え方で本人がどうこうと言う問題ではないと思う。その大きなキーワードは…(ちなみに、わたしの両親はグーで殴りました、ハタキやホウキも使いましたね)です。正に因みには要らない言葉で自分を正当化している言葉としか受け止められない。この言葉出てくると言う事は虐待の連鎖です。本人がやられた事を又誰かにやっているんです。人間は学習の動物だからやられた事は必ず他の誰かにやってしまう…そういう動物です。人間と言う動物は自分がやられて苦しかった事や悲しかった事を止めようとは思わないのです。何故連鎖が続くかと言えば癒しが存在しないからです。少なくてもペンケースがなくなってから記者会見が開かれている迄の中に癒しが存在しただろうか…!?

この場合、先ず癒されなければならないのは柳さんご本人でしょう。柳さんは多くの本も書いており柳さんを知らない人は少ないと思うくらいによく本は売れました。本が多く売れたとしても柳さんの心の癒しにはならなかったようです。私も本が沢山売れても癒しはないだろうな~?と言う気持ちは分かりますよ。柳さんがその当時の虐待が整理できていないのでしょうね。だから意識、無意識に関係なく虐待めいたアクションを興してしまうのでしょう。それに今の柳さんでは子供の言葉を引き出す事は出来ても心を引き出せるかどうかは定かではありません。親が有名になったり、金儲けをしたりする中で子供はどんな思いで生活しているでしょうかね~?

今回は柳さんという有名人の事件だと言う事でマスコミが取り上げたけれども私の父親は親戚を盥回しにされた経験からされて来た暴力をそのまま私に毎日した。私は痣のない日はないというくらい毎日どこかに痣があった。それでも耐えれたのは家に親がいてくれている…その気持ちだったと思う。後悔の弁を聞いたのは本人ではなく父の死後6年経った父の妹からでした。母親も近所では評判の良い人で通っているけれどその信実を知る人は少ないように思うのは多分私だけでしょう。少なくても私は己を癒してこれから結婚したいと思っています。どうなるかは限りなく?になるけれども出来る限りマイナス要因を少なくしながら子供には接してあげたいと思っています。やはり人を責めるより自分を戒める方が先だと思います。事実確認もしないで思いつくまま書いてしまったのは柳さんにも申し訳ないと思いますが今回の事件で私の思った感想は以上です。








Posted by ふじのおやまのヒデ at 09:13│Comments(4)
この記事へのコメント
ヒデさんのこういう、文章を読む度に、私も又考えてしまう。

親から愛される星のもとに生まれた者と、親から虐待され搾取される運命を持つ者が、同じ人間としてこの世に生まれてくる。

そして何の苦労もなく親の財産をもらって生きる者と、莫大な借金を背負って、親の尻拭いをして生きる者とが、同じ地上に生まれてくる。

しかし、どういう親を持つか、どういう人間関係の中で育つかは
その人の責任ではないのに、人々は、金持ちを礼賛し貧乏人を
さげすむ。

不公平。 これこそが人間の一番の苦しみかも知れない。

でも自分の運命を受け入れた者は、間違いなく神の子となる。
Posted by 山の辺 at 2008年02月16日 16:45
女将さんらしくないですね。

遠藤周作さんの「沈黙」を思わせる女将さんのコメントですね。しかし神はみんなに平等なんです。神の子は神のみぞ信じるんです。誰から生まれたを問う前に神の子であることが大切です。

病める者も心貧しき者も神の前ではみな同じ神の子なんです。だから極道者でも神の子には変わりないのです。私の若い時の考え方はこんな感じでした。要は修道士の考え方に被れていたのでしょう!?

しかし今もその考え方に付け足しはあるもののそれ程ぶれがあるとは思いません。女将さんが素晴らしいのは金持ちでも貧乏人でもそんな事はどうでも良いことなんです。大切な事は人の痛みを知る事ができるになっている事で、女将さんはその代表だと思いますよ。女将さんとの出逢いには感謝しています。
Posted by ふじのおやまのヒデふじのおやまのヒデ at 2008年02月16日 19:19
もちろん私はすべての者は神の子と信じています。
でもこの世は決してそうではない。不平等に満ちている。
、口では、上もなく下もなく皆平等を唱えながら
決して本心はそうではない人が多いと思うのです。

だから神の思いと人間の思いは、違うので、それが神の側の
知恵なのでしょう。
目下修行中です。
Posted by 山の辺 at 2008年02月17日 12:25
私の場合で言うと…親愛なる女将さんへ

正に遠藤周作さんの「沈黙」ですね。しかし皆が平等でなければいけないと聖書で謳われている訳ではありません。地球上には蛇もいれば人間もいます。人間はどんな生き方をしても自由とされていますが、与えられた生命を生きるのです。与えられた人生を生きるという事こそが神を信ずるという事に他ならないと私は思っています。

私の場合のみになりますが私は金持ちも、貧乏人も関係ありません。過去において私を貧乏と蔑んだ人は今の私に近付いて来ません。今も昔も私には変わりがないのにね。私は今も昔も殆ど変わらない生活しています。それ程贅沢をしているとは思えませんし、そのような堕落にならないように注意はしているつもりです。

女将さんの考えはやはりキュリー夫人のような考え方に似ていますね。愛に満ちた方だと思います。何も出来ない私は女将さんのような人がいるから大丈夫!…とそう思うのです。又一人心ある人に出逢えたのだから大丈夫!そう思うんです。
Posted by ふじのおやまのヒデ at 2008年02月17日 12:52
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
柳美里さんが連絡して来ないかな~!?
    コメント(4)